電波の基礎|深掘り編
複素数と複素インピーダンス 徹底入門 — jは「90°回す」操作
スミスチャートにも、給電線の計算にも、Z = R + jX という書き方が当たり前のように現れる。このjは何者で、なぜ無線工学は複素数を使いたがるのか。答えは意外なほど実用的だ——交流の世界では、すべての量が「大きさ」と「位相」の2つの情報を持つ。複素数は、この2つを1個の数として持ち運び、足し算掛け算まで面倒を見てくれる運搬道具である。この講座は、j²=−1の暗記から出発せず、「jを掛けることは90°回すこと」という幾何学から複素数を組み立て直し、L・Cのインピーダンス、共振、反射係数の計算までを一本道でつなぐ。
第1章 なぜ無線工学に複素数が出てくるのか
交流回路や電波の世界では、扱う量がすべて正弦波である。そして同じ周波数の正弦波は、たった2つの情報で完全に決まる——揺れの大きさ(振幅)と、揺れのタイミング(位相)だ。周波数は回路全体で共通なので、いちいち書く必要がない。つまり「振幅と位相のペア」さえ持ち運べれば、正弦波の計算は全部できることになる。
ところが、このペアを三角関数のまま扱うと地獄が待っている。2つの正弦波を足すだけで加法定理が必要になり、微分すればsinとcosが入れ替わり、部品を通るたびに位相のズレを別帳簿で管理することになる。19世紀の技術者たちも同じ苦しみを味わい、そして気づいた——「大きさと角度を1つの数として扱える数学」が、すでに数学者の手元にあることに。それが複素数である。
第2章 虚数単位jの正体 — 「90°回す」という操作
教科書はふつう「j² = −1 となる数j」から始める(数学ではiと書くが、電気では電流iとの混同を避けてjを使う)。しかしこの定義から入ると、jは「2乗するとマイナスになる不思議な数」という謎のまま終わってしまう。順番を変えよう。先に幾何学的な本体を言ってしまう——jとは「反時計回りに90°回す」という操作である。
jを掛ける=90°回す、と読む。90°回転を2回続ければ180°回転、すなわち向きの反転(−1倍)。「j²=−1」は不思議な約束ではなく、回転の当然の帰結である。
この見方の威力は絶大だ。「2乗して−1になる数なんて存在しない」というモヤモヤは、「90°回す操作を2回やれば反転になる」という当たり前の事実に変わる。そして交流の世界では「90°回す」がそのまま「位相を1/4周期ずらす」ことに対応する——コイルとコンデンサがやっている仕事そのものである(第5章)。
第3章 複素平面 — 1つの数の2つの書き方
横軸に実部、縦軸に虚部を取った平面(複素平面)を用意すると、複素数は平面上の1点、あるいは原点からその点へ伸びる矢として描ける。そして同じ矢に、2通りの住所の書き方がある。
直交形式(a+jb)と極形式(r∠θ)の換算。rは三平方の定理で求める矢の長さ、θは実軸から測った角度。角度はatan2(b, a)——bとaの符号の組から象限まで決める関数——で求める。逆向きは a=r cosθ、b=r sinθ で戻せる。
角度をtan⁻¹(b/a)だけで済ませてはいけない。tan⁻¹が返すのは−90°〜+90°の範囲だけなので、実部aが負のとき、つまり第II・第III象限の点では180°ずれた答えになる。例えば−1 + jは第II象限にあって正しくは135°だが、tan⁻¹(1/(−1)) = tan⁻¹(−1)は−45°を返す。矢の向きが正反対になってしまう。
電卓でtan⁻¹を使うときの象限補正
- a > 0(第I・IV象限): θ = tan⁻¹(b/a)をそのまま使う。例: 1 + j → +45°、1 − j → −45°
- a < 0(第II・III象限): θ = tan⁻¹(b/a) + 180°(または−180°)。例: −1 + j → −45° + 180° = 135°、−1 − j → 45° − 180° = −135°
- a = 0(虚軸上): tan⁻¹の分母がゼロで使えない。b > 0なら+90°、b < 0なら−90°、b = 0なら角度は定義しない
- 結果は−180°〜+180°(または0°〜360°)のどちらの流儀で答えるかを先に決める。両者は360°違うだけで同じ向きを指す
なぜ2つも書き方が要るのか。それは、計算の種類によって楽な形式が違うからだ。足し算・引き算は直交形式が楽——実部どうし、虚部どうしを足すだけ(矢をつなぐ図形的な足し算になる)。掛け算・割り算は極形式が圧倒的に楽——大きさは掛け(割り)、角度は足す(引く)だけでよい。
掛け算の規則:「大きさは掛け、角度は足す」。jは1∠90°なので、jを掛けると大きさそのまま角度+90°——第2章の「90°回す」がこの規則の特別な場合だったと分かる。
第4章 オイラーの公式とフェーザ — 正弦波が1個の複素数になる
ここで数学史上もっとも美しいと言われる式を1本だけ借りる。オイラーの公式である。左辺の指数関数は「角度θだけ回った、長さ1の矢」を表す——つまり極形式1∠θの正体は指数関数だった。
オイラーの公式。指数関数にjθを入れると、長さ1・角度θの矢になる。三角関数の面倒な性質(加法定理など)が、指数法則 e^a×e^b=e^{a+b} というただの掛け算に置き換わる。
この式があると、正弦波を「回る矢の影」として描ける。角速度ωで反時計回りに回り続ける、長さA・出発角度φの矢を用意し、その縦軸への影(投影)を追うと、それがまさに正弦波 A sin(ωt+φ) になる。回路中のすべての正弦波は同じ速さωで回るから、互いの違いは「矢の長さAと出発角度φ」だけ——回転を止めて眺めた静止画 A∠φ で全部の情報が保存できる。この静止画をフェーザ(phasor)と呼ぶ。
フェーザ表示のご利益は計算の激変に現れる。正弦波の足し算は矢の足し算(直交形式)になり、時間微分は「jωを掛ける」だけになる。指数関数は微分しても形が変わらず、係数のjωが前に出てくるだけだからだ。微分方程式だった交流回路の計算が、jωの掛け算・割り算という代数に降りてくる——次章のインピーダンスはこの恩恵そのものである。
第5章 複素インピーダンス — R・L・Cを同じ土俵に載せる
直流のオームの法則 V=RI を、交流のフェーザにそのまま拡張したい。「電圧フェーザ = (何か) × 電流フェーザ」の(何か)をインピーダンスZと呼ぶ。Zは大きさの比だけでなく位相のズレも背負うので、複素数になる。そして3つの基本部品は、見事に性格の違うZを持つ。
抵抗はただの実数(位相を変えない)。コイルは+j(電圧が電流より90°進む)、コンデンサは−j(90°遅れる)。微分がjω倍になる第4章の規則を V=L dI/dt と I=C dV/dt に当てはめただけで導ける。
直列につないだ回路の合成は、矢の足し算(直交形式)でZ = R + j(ωL − 1/ωC) = R + jX とまとまる。実部Rがエネルギーを消費する成分、虚部X(リアクタンス)が位相をずらす成分である。Xの符号で回路の顔つきが決まる——正なら誘導性(コイルが勝ち)、負なら容量性(コンデンサが勝ち)。スミスチャートの上半分・下半分は、まさにこのXの符号だった。
第6章 応用 — 共振・整合、そして反射係数を手計算する
Z = R + j(ωL − 1/ωC) を眺めると、特別な周波数があることに気づく。ωL と 1/ωC がちょうど等しくなる点では、+jの矢と−jの矢が打ち消し合ってX=0——インピーダンスが純抵抗Rだけになる。これが直列共振である。
共振周波数。受信機の同調(選局)はこの式でLかCを変えて目的の周波数に合わせる操作であり、アンテナの整合でリアクタンスを打ち消すのも同じ原理である。
仕上げに、予告していた計算をやろう。特性インピーダンス50Ωの線路に、負荷 Z = 50 + j50 Ω(抵抗は合っているが誘導性のズレが残っている)をつないだときの反射係数Γである。定義式に入れて、複素数の割り算を実行する。
割り算は「分母の共役(虚部の符号を変えたもの)を分子分母に掛けて、分母を実数化する」のが定石。分母は100²+50²=12500という実数になり、あとは分子を展開するだけで答えが出る。
大きさは第3章の三平方。|Γ|=0.447はVSWR約2.6に相当する。抵抗成分が50Ωぴったりでも、リアクタンスj50が残っているだけでこれだけ反射する——「整合はRとXの両方を合わせる作業」だと分かる。
この計算をスミスチャート教材で再現してみてほしい。R=50Ω・X=+50Ωに合わせると、チャート上の点はちょうど0.2+j0.4の位置(上半分)に現れ、VSWRは約2.6を示すはずだ。手計算と図がつながったとき、複素数はもう「謎の数」ではなく、大きさと位相を運ぶ日常の道具になっている。
手計算した0.2+j0.4を、チャートの上で確かめる
第6章の反射係数は、スミスチャート教材でR=50Ω・X=+50Ωに合わせればそのまま再現できる。複素数の割り算が図の1点になる瞬間を、自分の手で確かめてほしい。